コラム経営の羅針盤

日本の競争力とは何か 2014/05/26 コラム

JMAマネジメント研究所 主管
肥本英輔

◆ もう一つの「ドーハの悲劇」

サッカーワールドカップがもうすぐやってくる。このところ日本も常連となったせいか、スポーツ番組では勇ましい勝敗予想がかまびすしい。海外で活躍する実力選手も増えたし、確かに強くなった。しかし、世界の強豪チームのすごい動画を見ると、つい生唾を飲み込んでしまう。本音を言えば、「あっぱれ日本男児!」というような見事な試合をみせてくれればそれで良しとしたい。 思えば昔は弱かった。Jリーグが発足して日本中が沸いた1993年、まさにその絶頂の秋にドーハの悲劇が起きた。以来、20年以上が経過した。この時期になると、当時のショックを思い出す。初めてのワールドカップがするりとこぼれ落ちた瞬間だ。

しかし、私のショックはもう1つあった。それまで日本人の関心の薄かったサッカーが世界中でいかに愛されているかを痛感したことだ。というより、その世界では日本はほとんど存在感がない、ということに初めて思い至ったのだ。当時、バブルが崩壊したとはいえ、日本の国際競争力は絶頂期にあった。世界が日本をリスペクトしていると思い込んでいた。どの国でも同じだと思うが、メディアはその国の人間の活躍を大きく報じる。日本では、日本人が世界で活躍するスポーツや企業活動を誇らしげに報道する。その反復の中に常に身を置いていると、日本人がいかに優秀で、能力の高い民族であるかを無意識のうちに脳裏に刷り込まれてしまうのだ。私はそのわなにはまっていたことに初めて気づかされた。地球儀をはじめてみた日本人のショックに近いかもしれない。

以来、視野の狭さから来る人間の傲慢や偏見というものを、すこし意識してニュースを見聞きするようになった。

 

◆ 「勝者のパートナー」としての道

21世紀のグローバル時代の日本企業の競争力を考えるときにも、少しそうした視点からクールに報道を読み解く必要がある。 例えば、「アップルやサムスンにできて、なぜ日本企業にできないのか」という議論がある。世界の一流企業と日本企業一般を天秤にかけて単純比較するメディアらしいやり方だ。しかし、この手の議論はほとんど建設的な意味を持たない。なぜなら世界規模で企業淘汰が起こっているのであり、日本の企業だけが全滅するとか、無傷で生き残ることができると考えるのは間違いなのだ。世界中で、世界中のプレーヤーが淘汰の嵐の中で、栄枯盛衰を繰り返しているのだ。電機産業の凋落にしても、日本政府が悪いわけではない。企業戦略の失敗が主要因であり、政府の産業政策の失敗や指導力の低下といった見方は本質的ではない。ましてや日本的なマネジメントシステムの問題でもない。

おそらく、グローバル経済の時代とは、世界市場で事業を営む企業にとって、1つの戦略のミスが致命的な傷となる時代のことである。どのようなビジネスモデルがもてはやされようとも、戦略のミスは命取りになる。現在勝ち残っているワールドクラスの企業は、皮肉な言い方をすると運がよかっただけかもしれないが、その運も、勇気ある大胆な戦略が呼び込んだものである。

これは、21世紀に特徴的な現実と思われる。20世紀は、ここまでグローバル市場での競争は苛烈ではなかったように思う。戦略が決定的に重要になっただけではない。世界の市場競争にさらに可燃性の油を注いでいるのは、各国政府のトップセールス活動である。近年、日本の安倍首相もかなり派手に繰り広げているが、世界の動きからはずいぶん遅れた感は否めない。これは、もはや一国の産業政策といった次元の話ではない。国を挙げてのガチンコ勝負である。

大胆不敵な戦略とモーレツなトップセールス。20世紀の日本企業が不得手としてきた能力、行為である。これからはこの面の能力を高めていく必要がある。そのためには海外の有能な人材も積極的に採用して、要職に就けるべきだろう。

一方、そうした競争にあまり自信がないが、「技術力では負けないぞ」というユニーク企業は、独自技術を持つ限りは、グローバル企業同士の生死を賭けた戦場をよそに、世界のオープンイノベーションの有力なパートナーとして生き残ることができるだろう。むしろこうした「勝者のパートナー」となる生き方のほうが、生き残りの確率が高くなるのではないか。ただ、「選んでもらうためには相当な“美人”でなければならない」くらいの覚悟はすべきだろう。